「これ面白いから読んでみて」と嫁から渡された日経新聞の夕刊。「私のリーダー論」、勅使河原真衣氏の話が面白かったのです。
「能力主義脱し、分業と共創」という題で、彼女は組織開発コンサルタントとして多くの職場を観察する中で、「能力主義、一元的な『正しさ』こそが職場の問題解決を妨げている確信を持った」と。
「能力主義は個人に備わる持ち味に一元的な良しあしをつけ、『高い能力』『低い能力』などと評します。
我々は職場だけでなく学校でも偏差値などの一元的な能力で測られ、他者と比べられ、序列、選別、時に排除されるシステムを生きています」
-確かに、学校はモノサシが偏差値でしたし、そのモノサシで『できる』『できない』の選別がされていたと強く感じます。
会社もそうですね。私も入社して先輩社員の言葉で強く印象に残っているものがあって、
あいつは使えるけど、あいつは使えないから
-この「使える、使えない」というのは、主観なんですね。「自分から見て、扱いやすいか扱いにくいか」も含まれています。
勅使河原氏いわく、「『主体的な社員が少ない』という経営者や幹部からの相談も多いです。彼らの言う主体性とは、自分が求めていることを自分より早く察してやってくれること。
『主体性と呼んで本当に手に入れようとしているのはなんでしょうか』と問います。実は自分の安心のためであることが分かります」
「使える、使えない」≒「主体性がある、ない」≒自分から見たモノサシ、自分の安心感を得る基準、みたいなところですね。
これは私も管理職時代、思い当たる節ありまくりで反省しきりでもあります。優秀か、優秀でないか、それは自分や組織にとって摩擦なくスムーズに運営できるかどうかという、独り善がりであまりにも一元的な考え方だったと、今は強く思えます。
大企業で係長から課長に昇進する-それは「能力があると認められた」と本人は思います。その思いを持って部下に相対するんですね。
「俺の能力まで皆を引き上げて強い組織にするんだ」と、「俺から見て使えない奴は切るぞ」と、それは誰のせいでもなく、日本の偏差値一元教育の延長線上にあるような気もします。
しかし、それで組織は強くならない。強くなるどころか、部下は「やりたいことや言いたいことを押し殺して、上が求める基準に自分を合わせていく、迎合させていく」、これでは疲弊の一途を辿るだけです。
むしろこれこそが、失われた30年を作ってきた一つの要因ではないでしょうか。
「自分も含めて凹凸を認め、持ち味を生かすのが仕事だと理解できれば『うまくいってきたのは、周囲のおかげ』だと気づき、運も実力のうちを脱して、実力も運のうちとなる。そこが一歩です」
-人間ですから、長所短所はあって当たり前であり、それは当然、自分も同じこと。「そこにまずは気付け」ということかと思います。
企業の一般的なモノサシで見ると基準は満たしていない。しかし、「こんな面白い発想を持っている」「凄く人から好かれる雰囲気を持っている」あるいは「仕事に関係ないけど、これをやらせたら誰にも負けない」とか、良い点だけを見る。
そしてその良い点を持つ人たちの組み合わせで生まれるものを目指す。これからの企業のリーダーに求められるのは、そういうところなんでしょうね。
「競争をやめると生産性や国力衰退の心配はないのですか」との問いに勅使河原氏。「ないと思っています。実際、私が関わった企業は離職が減り、業績も騰がっています。
分業と組み合わせの妙、分かち合いで原資を増やしていく方が、これからの人口減の時代にも合っています」
新時代の管理職の在り方として、自らのスタイルを変える契機になればと思い、紹介させて頂きました。彼女の著作、これから読んでみたいと思います。




